オリジナル小説サイトです。新刊書籍 王宮書庫のご意見番 恋するきっかけは秘密の王子様 発売中  異世界の本屋さんへようこそ! 全3巻 & 既刊 愛してると言いなさい全4巻 アルファポリス様より発売中です。よろしくお願いいたします
Leviathan ――リヴァイアサン――

  突然の雨に困り、公園の木の下で雨宿りをしていた南の前に差し出された男物の傘。「使って、返さなくていいから」そう言って眼の前に立っていたのは、優しげで少し憂い顔の端正な若い男の人。彼は落ちついた低い声で「じゃあ、さよなら」と戸惑う南を残して立ち去った。彼との再会を願う南は翌日から公園に通い詰めるのだが――
 
 ひと夏の、期間限定の恋物語。八月三十日、夏の終わりに彼の隠された秘密を知る。

*不定期、スロー連載です。ご了承ください。2014・10・7開始~


7月21日 出会い 10・7更新
7月30日 晴天と傘 10・24更新
7月31日 再会は突然に 11・21更新
8月 1日 恋の始まる日 12・23更新
8月 2日 自己紹介します 3・25更新・2016
8月 3日 初デート 3・31更新・
8月 4日 手紙 4・27更新・
8月 5日 夏の庭 5・12更新・
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【2016/09/17 02:13】 | Leviathan ――リヴァイアサン――
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 拙作 新刊 恋するきっかけは秘密の王子様 5月末頃発売します。

 一人でも多くの方にお手に取ってもらえれば嬉しいです。
 どうぞよろしくお願いします!
<< 前の話


 昨夜、南はスマートフォンを手に悩んで過ごした。
 由良に電話をかけようか、それともメールを打とうか、どちらも迷惑ではないだろうか。
 彼女なら彼氏に連絡をするくらい、なんでもないことのはず。
 そのはず、なのだけれど……もしかしたら由良は、特に用事もない電話をされるのは嫌かもしれない。由良は受験生だし、勉強の邪魔になるのも困る。お風呂に入ろうとしていたり、寝ていたら悪いなあ、とためらううちにどんどん時間だけが過ぎてしまった。
 
 今日は由良に会えるのかな。手紙は彼に届いたのだろうか。

 そんなことばかり考えて集中力を欠いたまま講習を終えると、南は駅のトイレで身だしなみを整える僅かな時間も惜しみ、<Leviathan(リヴァイアサン)>へ急いだ。
 自然と小走りになる。今日も晴天で、うだるように暑い。直射日光を浴びればたちまち汗が出る。
 真鍮の門が見えて、門前に立ち、小路の向こうの玄関に眼を遣って南は驚いた。

「由良さん!」

 玄関扉の横、由良が人待ち顔で立っている。彼女の声を聞きつけると、こちらを見て柔らかく笑う。
 南はもどかしい心地で門を押し開き、閉めて、パタパタと由良の元へ駆け寄った。

「やあ」

 一日ぶりに見る由良の笑顔が眩しい。
 胸が彼に会えた喜びでいっぱいになり、弾けそうだ。
 自覚はあったけれど、本当に本当に心から由良に会いたかったのだ、と改めて思いながら、南は眼を細めた。
 由良の格好は、フィッシャーマン柄の白のサマーニットに紺のスキニーパンツ、それに焦げ茶のバブーシュを履いている。腕時計だけで、アクセサリーはつけていない。
 今日も爽やかで素敵だ。

「どうしたんですか、こんなところで」
「君を待ってたんだ」

 幼い恋心が刺激される甘い言葉に、南はあっさり赤くなる。

「外は暑いのに」
「うん。でも、少しでも早く顔が見たくて。ほら、昨日ずいぶんと熱烈なラブレターをもらったから、嬉しくてね」
「ラ、ラブレター!?」

 南は『会いたい』を連呼した手紙を思い出して猛烈に恥ずかしくなった。自分で書いた本音とはいえ、あれはちょっとやりすぎた。できることなら取り戻したいくらいだ。
 そんな具合に焦っていると、由良は面白そうにクスクス笑いながら裏庭へ続く小路へと南を促す。

「今日は朝から人が多くて、中に入ると君との時間を邪魔されそうだから、庭でいい? ガゼボに行こう」
「ガゼボ?」
「おいで」

 逆らい難い低い声に一も二もなく従いながら、南は由良の背中を追った。
 緑がこんもりと茂る小路を辿ると、ほどなく裏に回った。そこで眼にした光景に、彼女は思わず感嘆の声を漏らす。

「わあ、きれーい……」

 濃淡の異なる緑の植物が重なり合って広がっている。高低差のある植え込み、緑の葉の隙間から色彩豊かな花々が咲き乱れ、幻想的な空間を生み出していた。
 白い蔦バラの絡む緑のアーチの奥には、円形ドームの優雅な白い東屋が見える。
 由良はそちらに足を向けながらゆっくりと喋った。

「もともとは亡くなった祖母の庭でね、自然をより大切にするイングリッシュ・ガーデンに憧れて造ったそうだよ。緑はギボウシにアイビー、コニファー、ヤマボウシ。カレックスにローズマリー。花は真冬を除いて、年中色々なものが咲く」

 南は眼に留まった花を指して訊いた。直径二〇センチほどの大輪の花で、白地にピンクの筋がスッと入り、凛として綺麗だ。

「この星みたいな薄紫の花はなんですか」
「星?」

 由良がクスリと笑う。肩越しに彼女を振り返り、茶色の眼を愉快そうに細めて言った。

「君の眼には星に見えるんだ」
「お、おかしいですか」
「いいや、ちっともおかしくないよ。とても言い得て妙だ。それはクレマチスのアンドロメダ。花言葉は、美しい心」
「こっちの雪の結晶のような白い花は?」
「それもクレマチスで、サマー・スノー」
「夏の雪なんてロマンチックで素敵ですね! あ、この日陰の花もイヤリングみたいで可愛い」
「それはフクシアのアナベル。花言葉は、慎ましい愛。信じる愛」
「これは? 白い花びらに中心が薄い黄色で、すごく華やか」
「ダリアのムーンワルツ。花言葉は、感謝と豊かな愛情」

 訊ねれば、すぐに答えが返ってくることにすっかり感心して、南は由良を尊敬のまなざしで見つめた。

「由良さん、すごい」
「すごくないよ。ただ祖母と一緒に僕も庭仕事を手伝って覚えただけ」

 彼は謙遜するが、南は首を横に振って言った。

「それでもすごいです。もしかして、お庭の花の名前、全部言えたりするんですか」
「それくらいはね。いまはガーデナーに任せているけど、祖母が元気だったときは僕たち二人で水やりや手入れをしたから」

 そう言って懐かしそうに庭を眺める由良の眼は優しい。たぶん、彼の祖母のことを思い出しているに違いない。
 南は緑の中に佇む由良の姿をじっと見つめた。思いがけず、彼の昔の話を聞けて嬉しい。
 ふと我に返った由良が、「行こうか」と蔓バラのアーチを潜る。彼女も後に続く。

「どうぞ、座って」

 ガゼボはきちんと手入れされていて、とてもきれいだ。中央に白いテーブルと、周囲には白いベンチがある。
 蒸し暑いが陽射しは遮られているし、風が吹けば涼しい。葉擦れの音や緑の匂いと花の甘い香りが盛夏を感じさせて気持ちよく、南はガゼボが気に入った。
 こうして座って緑と花に埋もれた庭を眺めると、おとぎ話の国に紛れ込んだ気がする。

「なんだか妖精の庭みたい」

 由良は南の隣に座り、背凭れに軽く寄りかかって、ある細い木を指して口を開く。

「じゃあ今度、あのサンザシを見張ってみようか。妖精が踊るかもしれない」
「えっ!? 本当に妖精がいるんですか!?」
「どうかな。僕は見たことないけど、祖母は妖精のためにってサンザシやスイカズラ、ハシバミの木を植えていたな。なんでも妖精が好きな草木なんだって」
「うわあ、優しい。妖精のために気配りするなんて、すごく素敵なおばあさまですね」

 亡くなられているとは残念。ぜひお会いしてみたかったなあ、と南が肩を落とすと、由良はつくづくと彼女を眺めて言った。

「……妖精の話を聞いて笑わなかったのは、君で二人目だ」
「一人目は誰です?」
「僕。僕と、君だけ」

 静かな声でそう呟き、由良はより低いトーンで囁いた。

「昔、祖母が……」

 彼が話を続けようとしたとき、突然、第三者の声が割って入った。

「ご歓談中、失礼します。飲み物をお持ちしました」

 現れたのは有馬だった。手に木製のトレイを持っていて、一声かけるなり、てきぱきとテーブルセッティングを始める。

「ダージリンのアイスティーと水菓子はマスカットの白ワインゼリーです」

 アイスティージャグとグラスとガラスの器を二つずつ並べて、スプーンを添える。

「どうぞ冷たいうちにお召し上がりください」
「ありがとうございます、有馬さん」

 南がペコリと頭を下げて礼を言うと、有馬は穏やかな笑顔を浮かべて答えた。

「どういたしまして。由良様、あまり暑いようでしたら中にお戻りください」
「ああ、わかってる」
「それから、こちらもよろしければご使用ください」

 そっと置かれたのは丸い形のカラフルなシリコン氷嚢だ。ピンクとブルー、二つある。
 握ると冷たい。額にあてると熱が引いていくようだ。

「気持ちいいー」
「よかったですね」

 よほどだらけた顔をしたのかもしれない。
 有馬が噴き出しそうになるのを堪えているような表情で、肩を微妙に震わせながら踵を返して去っていく。

「由良さんも、ほら、握ってみてください。ひんやりしてます」

 由良は有馬の後ろ姿をじっと見送り、次いで、南を見た。

「昨日、有馬となにかあった?」
「え?」

 南は氷嚢を頬にくっつけたままキョトンとした。
 由良は少し距離を詰め、彼女の眼を上目遣いで覗き込む。

「有馬があんなふうに笑うなんて、珍しいから」
「そうなんですか? えっと……でも、特に思い当たりません。別になにもなかったですよ。ただ、スマホで写真を一枚撮られたのと、て、手紙を書くようにお願いされたくらいで」

 そう言えば、変顔の写真を撮られて由良に送信されたはずだ。
 できれば消去してほしい、と言いかけたところ、由良に先手を打たれてしまった。

「あの写真だったら、待ち受けにしたよ」

 最悪だ。
 なんでよりによって変顔を撮られてしまったのか、悔やまれてならない。
 ショックを受けて絶句する南を余所に、由良は続ける。

「自然な表情がいいよね。今度、僕にも撮らせてくれる?」

 彼女は自棄(やけ)になって頷いた。

「由良さんも私に撮らせてくれるなら……」
「いいよ。いつでも好きに撮って」
「本当ですか!?」

 俄然、元気を取り戻す。
 彼は南の勢いにびっくりしたようで、一瞬息を呑んだが、すぐに相好を崩す。

「うん。ああでも、外部には流さないでくれる? 自分の写真が自分の知らない人の間で広まるのは、ちょっと気持ち悪いから」
「もちろんです。絶対にそんなことはしません!」

 力んで誓う。
 南があまりにも真に迫っていたためか、由良はおかしそうにくつくつと笑った。

「じゃあ、どうぞ? そうだ、せっかくだから二人一緒の写真も撮ろうか」
「ぜひ!」

 ときめき全開だ。嬉しくて嬉しくて、自分でも気持ち悪いくらい顔がニヤけてしまう。
 彼女はポーチから鏡を取り出して、髪の乱れを整えた。こっそり、リップも塗り直す。

「用意できました」
「よし、撮ろうか」

 南はスマートフォンのカメラアプリを立ち上げて、解像度を上げ、スタビライザー機能をオンにし、ホワイトバランスや露出などを調整した。最後にレンズを拭くのも忘れない。

「えっと、ここは少し暗いので、明るいところに移動したいです」
「背景も映るなら、サマー・スノーの前あたりはどうかな」

 白い夏の雪の花が満開の中に、由良と肩をくっつけて並ぶ。
 頭より少し上にスマートフォンを構えて眼を上げ、顎は引く。緊張して、手が震えた。

「と、撮ります」

 低いシャッター音。
 念のため確認してみると、心配したほどブレていない。それに写りもまあまあだ。言うまでもなく、由良は文句なしに格好いい。
 幸せだ。まるで夢のよう。
 念願の『彼氏とツーショット』だ。
 決めた。これは永久保存して、待ち受けにしよう。
 南がスマートフォンの画面に見入りながら幸福感を噛みしめていると、由良が彼女の手元を覗き込んで微笑む。

「よく撮れているね。その写真、僕にも送ってくれる?」
「はい。すぐに送ります。由良さん、ありがとうございました!」
「こちらこそ、ありがとう。『彼女とツーショット』写真を撮れるとは思ってもみなかったよ」

 嬉しそうに声を弾ませて、彼が少しはにかんだように笑う。
 その笑顔は南の胸を直撃した。心が締めつけられて苦しくなるほど、きれいだった。
 この瞬間を、この彼の笑顔を、一生忘れない――と南はそう思った。


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【2016/05/12 03:23】 | Leviathan ――リヴァイアサン――
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 熊本地震で被災された皆様のご無事をお祈り申し上げます。
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 翌日はうだるような暑さだった。
 蝉がうるさいほど鳴いて、太陽は灼熱の光線を注いでいる。アスファルトは逃げ水のような蜃気楼がいつ見えても不思議じゃないほどの熱を持っていて、悪いことに、風もない。
 南は講習の合間の休憩時間に、全開した教室の窓からグラウンドを眺めていた。
 この炎天下で、野球部はバッティング練習やノックを受ける練習を朝からずっと続けている。
 時折、威勢のいい掛け声が響く。意味不明のものから、「走れ走れー」と叱咤する声まで。ただ立っているだけでも辛いのに、全力疾走しひたすらボールを追う野球部員たちは、たぶん感覚神経が麻痺している。常人より暑さに対するベクトルが振り切れて、おかしくなっているに違いない。

 でも、なんだか格好いい。

 汗まみれ、泥まみれで汚いのに、甲子園出場校という看板を背負った彼らの集中力はすごい。
 全身から勝利に対する執念が漂っていて、皆真剣そのものだ。
 そして絶えず聞こえる、吹奏楽部の音楽もそう。
 甲子園で定番の曲や校歌を、何度も繰り返し演奏している。トランペットの青空を突き抜けるような甲高い音、トロンボーンの表情豊かな幅広い音、ホルンの柔らかい音、チューバの低い音。
 他にも、ユーフォニウム、サックス、クラリネット、フルートに、打楽器。
 全部が絶妙に溶け合って、迫力ある音を紡いでいる。
 耳を澄まして聞いていると、元気と勇気が湧いてくるようだ。
 ふと、昨日偶然駅で会った関義弘のことを思い出した。

「関君も頑張ってるかなー」

 きっと、暑さにめげず、練習に励んでいるだろう。

「よーし、私も頑張ろうっと」

 南は自分の席に戻り、机に置いていたペットボトルの水をゴクリと飲んだ。それから英文法の課題を見直す。英語は苦手科目で、特にリスニングが不得手だ。テストではまず平均点に達しない。得意の現代文や古文に比べて点数が悪すぎる。
 この弱点を克服するため夏期講習に参加したのだ。
 だが講習の最初の数日は自分の選択を後悔した。わからないものはわからない。苦手なものは、やっぱりどうしても苦手。早々にリタイアしたい気持ちになっていたとき、奇跡が起こった。

 由良との出会い。

 彼と付き合い始めてまだ四日目だけど、かつてないくらい勉強に真剣に向き合っている。
 英語の文法がなんだ。リスニングがどうした。わからなければ、わかるまで訊いて理解すればいい。そのための努力を惜しまなければ、いずれは平均点ぐらい取れるだろう。

 恋ってすごい。

 不思議なほど前向き(ポジティブ)になれる。
 なんといっても、講習が終われば<Leviathan(リヴァイアサン)>に行ける。由良に会えるのだ。これでやる気が出ないはずがない。
 南は目の前の参考書に集中した。次第に野球部の喚声も吹奏楽部の音も気にならなくなる。
 ひと夏の短い生を歌う蝉の声だけが、蒸し暑い教室に届いていた。


 駅のトイレで身だしなみを整え、<Leviathan(リヴァイアサン)>の扉を叩く。
 有馬からは由良との交際が決定したあとに、「自由に入ってきてください」と告げられていたが、まだ厚かましいような気がして、勝手に玄関扉を開けられなかった。
 カチャ、と小さな音がして扉が開く。現れたのは有馬だった。
 今日は薄いブルーのストライプのシャツに、色の抜けたジーンズと白のスニーカーを合わせている。短めの黒髪とその服装は、ラフだけどラフ過ぎず、有馬によく似合う。

「こんにちは、南さん」
「こんにちは、有馬さん」

 南がペコリとお辞儀して顔を上げると、有馬がやや表情を曇らせて言った。

「申し訳ありません。本日、由良様はこちらにおられません」

 ガーン、と効果音付きでショックを受ける。
 その一言で、南は落胆した。たったいまのいままで世界はバラ色だったのに、この瞬間はもう眼に映るすべての景色が色褪せて見える。

「そ、そうですか……」

 別に、今日<Leviathan(リヴァイアサン)>で会うと約束したわけじゃない。
 ただなんとなく、ここに来れば由良はいるものだと勝手に思い込んでいただけだ。
 会って昨日のことを話したかった。筋肉痛にならなかったか、直接訊きたかった。すごく楽しかったから、彼さえよければまた行こうと誘ってみたかったのに。
 とても残念に思った。胸に隙間風が吹く、とはこんな感じなのかな。
 南が露骨にがっかりした顔で溜め息を吐いたのを見て、有馬は慰めの声をかけてきた。

「由良様も南さんとお会いできず、とても残念がっておいででした」

 これを聞いてちょっと気分が浮上する。社交辞令かもしれないけれど、それでも嬉しい。
 南は由良がいないならここに寄っても仕方ないかな、と思いそのまま帰ろうとしたところ、有馬に引き止められた。

「お待ちを。もしご都合がよろしければ、冷たいものでもいかがですか」
「お邪魔してもいいんですか」
「もちろんです。どうぞ」

 有馬に促されるまま、南は玄関を潜った。
 ピアノが聞こえる。
 ガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルー。
 クラシック音楽とジャズが混然としたような自由奔放な曲で、聞いていると気分が明るくなってくる。 
 教授かな、と予想してフロアに入る。予想的中。今日みたいな猛暑でもスーツを着用した初老の男性が、気持ちよさそうな顔で鍵盤に指を躍らせている。
 他にはオープンキッチンにカフェエプロン姿のマスターが一人、新聞を広げて読んでいる。
 南を見つけるとニコリと笑い、新聞をたたむ。スツールからゆっくりと腰を上げて言う。

「おや、南ちゃん。いらっしゃい。なにか飲む? それとも食べる? なんでも作るよ」

 すぐに返事ができないでいると、有馬が背後から提案した。

「桃のフローズンヨーグルトはいかがですか。それに梅ジュース。さっぱりしますよ」

 おいしそうだ。
 南が眼を輝かせるとマスターは手を洗いながら頷いた。

「お、いいセレクト。有馬君も飲むかい?」
「はい。炭酸割りで」
「よしきた」

 そして早速、マスターは冷蔵庫を開けて作業を開始する。
 南は既に定位置としたソファに座ると、有馬に自分も座っていいかと訊かれた。

「もちろんです」

 有馬が対面に座る。咄嗟に、隣でなくてよかった、と思う。隣は由良の指定席にしたい。なんて、こんな恥ずかしいことは口にできないけど。
 南が恋愛脳に浸っていると、有馬が会釈して言った。

「考えてみれば、俺、まだ南さんに挨拶をしていませんでした。改めまして、有馬一久(ありまかずひさ)です。由良様の世話役を務めさせていただいております」
「世話役?」

 あまりなじみのない言葉を耳にして南は怪訝に思い、訊き返した。
 有馬が微苦笑して答える。

「由良様は旧家の出の方なので、由良様に限らず、お身内の皆様に俺のような者が一人は必ずついています。身辺警護や身の回りの世話、雑用全般が仕事です」

 旧家の出。

 寝耳に水だ。それってすごいお金持ちの家ってこと? いや、お金持ちとは限らないかも。でも専属のお付きの人がつくくらいなのだ、由緒正しいおうちなのかもしれない。
 心臓がドクドクと大きく鳴る。その都度、緊張が膨れ上がった。手汗をかく。血の気が引くなんて、あまり経験がなくてはっきりとは言えないけれど、こういう状態かもしれない。息をするのも苦しくなって、全身が強張っている。頭の中では、嫌な想像が忙しく駆け巡る。

 もしかしたら、身分不相応、とか? 不釣り合いだから別れてくれ、とかそういう話?
 或いはもう、決められた婚約者……本当は許嫁がいるとか、知らされるのかもしれない?

 南が心の準備を整えられないまま黙っていると、有馬はシャツの胸ポケットから黒い名刺入れを出し、名刺を一枚ローテーブルに置いた。

「俺の携帯番号とアドレス、緊急時の連絡先です。もしなにかあった際は、ここに連絡を」
「わ、わかりました。アドレス登録しておきます」
「もし不都合がなければ、南さんの携帯番号とアドレスを教えていただけますか」

 南は一も二もなく頷いた。鞄からスマートフォンを取り出して、電話帳から自分の連絡先をタップし、メニューから赤外線送信で有馬の携帯端末に送る。

「ありがとうございます」

 会話が途切れる。有馬の態度は変わらず、冷静で慎ましいままだ。
 南はおずおずと訊ねた。

「……あの、それだけですか?」

 すると有馬の方が不審そうに訊ね返してきた。

「それだけとは?」
「えっと……その、私と由良さんとの交際を反対されるのかと思って……」

 南が有馬の反応を窺うように答えると、彼は驚きに眼を軽く瞠って否定した。

「いいえ、まさか。むしろ南さんには感謝しています。あなたと由良様が交際を始めて日は浅いですが、由良様は楽しそうです。昨夜など本当に機嫌が良くて、あんなに心穏やかに笑われる様子を見られるとは思ってもいませんでした」

 有馬の紡ぐ言葉を聞いて南は安堵した。強制的に引き離されるかも、と心配してしまったが、どうやら取り越し苦労だったらしい。
 それに有馬によると、由良は機嫌がよかったという。それは初デートが成功したということだ。
 よかった。楽しいのは自分だけじゃなかったみたいで嬉しい。
 南が内心笑み崩れていると、連絡先を交換し終えた頃合いを見計らったように、マスターがガラスの器とグラスを載せたトレイを持って運んできた。

「はい、お待ちどうさま。桃のフローズンヨーグルト、バニラアイスクリーム添えと梅ジュースのソーダー割りですよ。ごゆっくり、南ちゃん」
「ありがとうございます! いただきます」

 銀のスプーンを持ち、シャーベットからいただく。舌の上でシャリシャリする塊が一瞬で溶ける。至福の瞬間だ。

 おいしくて幸せ。

 南がほにゃっと思わず顔の筋肉を弛緩させると、小さなシャッター音が聞こえた。ふと視線を上げれば、有馬がスマートフォンを南に向けて構えている。

「え」

 事態が呑み込めずスプーンを口に銜えたまま固まる南の前で、有馬が指を動かす。

「由良様に送信いたします」

 南は仰天した。

「え!? ちょ、ま、待って、いま変顔じゃなかったですか!?」
「いえいえ、自然な表情が大変おかし……素敵ですよ」
「絶対嘘です! いまおかしいって言いかけましたよね!? 不意打ちは卑怯ですよ」
「一枚だけですのでお許しを。俺のデータは削除しますので」
「どどど、どうしよう。いま、絶対変顔だった。パンダアライグマだった。まずすぎるよー」
「は? パンダアライグマ?」
「垂れ目に見えるってことです! って、なんで笑ってるんですかー!」

 有馬がくつくつ笑いながら南をなだめすかし、結局、そのままになってしまった。

「少々、失礼します」

 そう断って、有馬が一旦席を外してすぐに戻ってきた。手に便箋とボールペンを持っている。
 おもむろにそれを差し出され、南はポカンした。

「なんですか、これ」
「由良様に一筆いただけないかと思いまして」

 有馬はにこやかに、しかしさりげなく強引にテーブルの上を片付けて便箋の表紙を捲る。

「LINEでもいいのですが、充電切れになったり本体が破損すればデータは失われますので、やはりここは古典的ですが恋文……ではなく、お手紙を頂戴できれば由良様がお喜びになります」

 南は動揺しながら言った。

「な、なんでいきなり手紙なんですか」

 南が疑問をぶつけると、有馬は涼しい顔で復唱した。

「南さんのお気持ちを手紙に認め、これを届ければ、由良様はきっとお喜びになります」

 言い切られてボールペンを手渡され、南はうろたえた。

「でも、なにを書けばいいのか、全然思いつかないんですけど」
「難しいことは考えず、どうぞ素直なお気持ちを綴ってください」
「素直な気持ち……」

 真っ白い便箋を前に南はしばらく考えて、恐ろしく率直な感情をそのまま書き綴った。


『今日、由良さんに会えなくて残念でした。明日は会えると嬉しいです。
 会いたいです。
 会って、お話とかしたいです。
<Leviathan(リヴァイアサン)>で待ってます。
 会えるまでずっと、ここで待ってます。
                             南理子』


 読み返すと、会いたいという言葉ばかりが連なって、子供っぽい感情を押し付けているだけのような気がする。
 急に恥ずかしくなり、書き直したい衝動にかられた。だがグシャっと便箋を握り潰す寸前、有馬に止められる。便箋をひょいとさらわれ、件の頁を丁寧に二つ折りにして封筒に入れてしまう。

「これで十分です。ありがとうございました。間違いなく由良様にお渡ししますので」
「あのっ、やっぱりやめます。それ、少しも実のあること書けてないから、もっとちゃんと考えて書きます。書き直しさせてください」

 ところが有馬は首を横に振って、南の要求を拒んだ。
 有馬の眼が、じっと南を見つめる。細められた眼は切なさを滲ませた真剣なもので、南は胸を衝かれた。

「……書き直しなど必要ありませんよ。こんなに心を揺さぶられる手紙だったら、俺だって欲しいくらいです。由良様が羨ましいですよ」
「……本当ですか?」
「ええ。この手紙は、俺が間違いなく由良様にお届けします」

 南は自分では納得のいく出来ではないけど、有馬がそう言ってくれるなら由良も少しは喜んでくれるかもしれない、と考えて手を引いた。

 明日こそ会えるといいな。

 そう強く願いながら、南はすっかり氷の解けた梅ジュースを飲み干した。

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【2016/04/27 02:12】 | Leviathan ――リヴァイアサン――
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小説家になろう様で、『黒の公子と悪の魔法陣』連載中です。
お時間のある方、お付き合いいただければ嬉しいです。
<< 前の話 

 楽しみすぎて死ぬかと思った。
 南は朝からすこぶるご機嫌で、家族に気持ち悪い、と言われてしまった。
 早く終われーと念じつつも、講習は疎かにしない。
 勉強と恋の両立。これができれば最高に格好いいだろう。

 いまなら空も飛べるかも、と我ながらアホな発想をしつつ駅のお手洗いで鏡を覗き込む。
 髪よし、リップよし、ティッシュペーパーで鼻の頭のテカりを押さえて、これもよし。
 昨夜、ムダ毛処理を頑張ったから肌は綺麗だ。
 一度帰宅して私服に着替えてから行くことも考えたが、その分遅くなるので、このまま向かう。
 憧れの制服デート……にはならないけれど、由良が英聖館の制服を着て一緒に歩いたら、ものすごく目立つだろうからそれを避ける意味ではいいのかもしれない。

 余計なライバルを増やしたくないしね。

 でも制服姿の由良は格好いいだろうなあー、と妄想する。
 一度くらい制服姿も見たいから、お願いしてみようかな。だめかな。迷惑かな。
 そんなことを考えて駅の構内から出たところで、声をかけられた。

「おい、南。なにニヤけて歩いてんだよ」

 聞き覚えのある声に振り返ると、クラスメイトの関(せき)義弘(よしひろ)がいた。
 関は吹奏楽部のトランペット奏者だ。なんでも小学生の頃から続けていて、結構上手らしい。
 トランペットは肺活量が重要で、体力づくりのためランニングや腹筋は欠かせない。そのせいか、身体は鍛えられていて、見た目からして割とゴツイ。パッと見た目には、体育会系だ。
 短い黒髪に日焼けした肌、人懐っこそうな明るい顔は南を見つけて綻んでいる。

「あれ、関君。もう部活終わったの?」

 今年、南の通う海琳(かいりん)高校の野球部が三年ぶりに夏の甲子園に出場する。
 そのため野球部が猛練習に励んでいるのは当然だが、吹奏楽部も負けてない。甲子園のスタンドからエールを送るため、部員は夏休み返上で毎日登校している。
 南がそのことを知っているのは、講習の最中に、開け放した窓から音楽が聴こえるからだ。
 関は手にしていたトランペットケースをちょっと持ち上げて言った。

「いや、いまから行くところ。午前中、じーちゃんの七回忌があってさ、さっき終わったんだ」
「そっか。忙しいね」
「南は? 帰るところか」
「ううん。ちょっと人と待ち合わせてる」

 さすがにまだ、由良を彼氏と呼べるほど実感がない。
 ただのクラスメイト、しかもこれから部活の練習に行こうという人間に、プールに泳ぎに行くとはもっと言えない。
 関は「ふうん」と言って、会話が尽きたのか、南から視線を外して言った。

「じゃあな」
「あ、待って。これあげる。陣中お見舞い」

 南は鞄からキャラメルを取り出して、関の掌に二個置いた。

「飴ちゃんかよ」

 関が笑う。
 南はキャラメルの箱を見せて言った。

「とっておき、夏限定のパイナップルキャラメルだよ」
「うわ、びみょー」
「ちゃんとおいしいよ!」

 関が「まじかよ」と言いながら一粒ポイと口に放り込む。

「どう?」
「感想は明日以降、要期待」

 と言って、関は無造作に手を上げて踵を返した。その背中に南は叫ぶ。

「頑張ってー」
「おう、頑張ってくるわ。飴ちゃん、サンキュな」

 この暑いのに、ご苦労さまだ。

 南の高校にクーラーの効く部屋は数えるほどしかない。職員室と校長室、それに保健室だけだ。
 吹奏楽部の部室は音楽室で防音だが、暑いため窓を開ける。当然、音楽は漏れる。
 演奏を聴けば、吹奏楽部員の熱の入れようもわかるのだ。野球部員が必死であるように、吹奏楽部員も必死だ。学校の名誉にかけて、半端な演奏などするものか、と心意気が見えるような音を紡いでいる。

 試合相手を決める抽選会はこれからだが、既に全校応援は決定している。生徒は基本、全員参加だ。なんでもスクールカラーの紺の帽子を着用して、白い扇子を持つらしい。
 南もいまから楽しみにしていて、甲子園の開会式にも行きたいな、と思っているほどだ。


<Leviathan(リヴァイアサン)>では由良が待っていた。
 今日はネイビーのボーダーカットソーに、白のクロップドパンツを合わせて、黒のキャンパスシューズを履いている。肩には黒いリュックサック。アクセサリーはなし、左腕に時計をつけているだけ。
 その時計がまた、シンプルで由良にはよく似合っている。ブレスレット部分がシルバー、文字盤(ダイアル)はブラックだ。
 南が褒めると、由良は左手首を一瞥して言った。

「オメガのシーマスターだよ。祖父からの貰い物。防水機能がしっかりしているから、プールで遊ぶにはちょうどいいと思って」
「由良さんもプールに入るんですか」
「気が向いたらね。あまり期待しないで」
「そ、それは無理かも、です」

 つい本音が口をつく。だってやっぱり、一緒に遊べるなら嬉しい。
 南が指を無意味にいじって言うと、由良は笑い、玄関口で見送りに立っていた有馬に言った。

「じゃあ行ってくる。夕方には戻るよ」

 有馬がなぜか、心中穏やかじゃない、という顔で不承不承、由良を送り出す。

「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

 南が由良と真鍮の門を出たところに、黒い外車がハザードランプをつけて停車していた。
 真夏なのにブラックスーツを着た運転手が車の脇で待っていて、由良を見ると会釈し、後部座席のドアを開ける。

「どうぞ、乗って」
「え? は?」
「レディファーストだよ」

 南は戸惑うまま後部座席に乗り込み、奥に詰めると、由良が隣に座った。
 車内は広く、整然としている。内装は上質なレザーを使用した上品なもので、クーラーがほどよく効いていた。

「南さん、座り心地はどう? シートバックはリクライニング可能だけど、調整する?」
「えっと、とてもいいです」
「そう? じゃあ、シートベルトを着用してくれるかな」
「あ、はい」

 車は由良の合図で滑るように走り始めた。振動がほぼなく、快適な走行で、静粛性も高い。
 こんな車は初めて乗った、と感動する傍ら、南の気になることは別にあった。

「あの、由良さん。プ、プールに行くんですよね?」
「そうだよ」
「えっと、私、近くのスポーツセンターのプールに行くのかと思ってたんですけど、もしかして別の場所ですか」
「それは着いてからのお楽しみ」

 由良が唇に指をあて、悪戯っぽく笑う。
 南は由良のそんな他愛のないしぐさにもドキッとした。
 可愛くて、格好いい。それに加えて色っぽいって、完全に由良に負けている。
 車は二〇分ほど走り、到着したのは芸能人や海外の要人なども泊まることで有名なハイクラス・ホテル。
 呆然とする南を由良がエスコートし、連れて来られたのは、最上階の屋内プール。

「女性の更衣室はここだよ。着替えたら出ておいで」

 そう言い残し、由良は男性更衣室へと向かった。
 南はプール内を見回した。天井の一部と壁がガラス張りで、屋内は明るい。
 二十五メートルプールと、円形で大理石仕様のジャグジー、それにバーが備わっている。
 所々にグリーンが飾られて、プールサイドにはリクライニングチェアが適度な距離間隔で置かれ、椅子とテーブルもある。
 好きに使っていいのか、ロール状に巻かれた白いタオルがウッドテーブルに積まれていた。
 人の数は多くない。皆、ゆったりと寛いでいる。

 しばらくボーっと突っ立っていた南だが、とにかく着替えなきゃ、と更衣室に入った。
 水着は去年買った、オレンジ色のホルタービキニだ。トップもボトムもフリル付きで、可愛くて気に入っている。
 ただ問題は、由良がどう思うか。
 今更だが、南は鏡の前で悩んでいた。

 は、派手だと思われないかな。大胆なデザインじゃないし、紐タイプでもないから、普通に泳ぐ分には脱げたり外れたり、なんてドッキリにはならないけれど。

 何度も首の後ろの結び目が固いことを確認して、覚悟を決める。
 あまり待たせるのも由良に失礼だ。
 更衣室にもロールタオルがあったので、一枚拝借し、肩から羽織って出る。
 由良はプールサイドのリクライニングチェアに寛いでいた。
 水着は膝上の黒のサーフパンツで、裸の上半身に白いパーカーを着ている。

「南さん、こっち」

 由良が軽く片手を上げる。そんな合図がなくても、格好良すぎて、一番目立ってる。

「お、お待たせしました」

 恥ずかしくて、顔が上げられない。
 ところが由良はとても嬉しいことを言ってくれる。

「へぇ、ビタミンカラーも似合うね。可愛いよ。南さんはなんとなくピンクのイメージだったんだけど、そうか、こんな色も着こなせるのか」
「由良さんも、すごく素敵です!」
「ありがとう。でも男の水着姿なんて褒めなくていいよ。水着姿は女の子が主役を張るべきだ」
「あはは」

 南が笑い声を立てると、由良は表情を和らげた。

「うん、いい笑顔。さて、じゃあ早速、君の泳ぎを見せてもらおうかな」
「はい!」

 とはいえ、まず入念にストレッチ。水中で足が攣ったら、本当に生死にかかわるので大変だ。
 準備運動を終了し、タオルをチェアに置いて水に入る。
 水は温水。身体になじませながら、端へと移動する。空いているとはいえ、往復泳ぐならなるべく邪魔にならなさそうな端がいい。
 南はトプン、とまず頭まで水に浸かった。それからもう一度沈み、少し潜水して浮上する。初めはクロールで軽く流し、ターンして、次はゆっくりと平泳ぎ。
 またターンして、今度は背泳ぎ。人がいるので、バタフライは控えることにする。
 身体が水に慣れてきたので、徐々にスピードを上げる。それでもトップスピードまでは上げない。コースじゃないので、万が一衝突でもしたら大変だ。

 ひと泳ぎして満足し、そろそろ休憩しようとしたところ、スッと手を伸ばされた。
 由良だ。
 南は照れ笑いしながら由良の手を掴み、水から上がった。すぐにタオルが肩にかけられる。

「お疲れさま。見ていたよ、綺麗なフォームだった」
「えへ。フォームだけは、顧問の先生にも一番綺麗だって褒められたんです」
「君の話、もっと聞きたい。でもまずはちょっと休んで。いま飲み物を持ってくる」

 そう言って、由良はバーに向かった。
 南はなんだかお姫様扱いをされているような気分でいた。
 由良が優しい。それにすごく紳士だ。とても同世代の男子とは思えない。

「はい、どうぞ」

 と、南の前に差し出されたのはデンファレの花とパイナップルが一切れ、グラスの縁に飾られたグラスだ。

「わ、きれーい」
「ヴァージン・ピニャコラーダ。パイナップルジュースとココナツジュースのカクテルだよ。ノンアルコールだから安心して飲んで」
「いただきます」

 カクテルなんて初めてだ。ドキドキしながら、一口飲む。

「どうかな」
「おいしいです。すごく甘いのに爽やかで、なんか懐かしい感じもする」
「気に入ったならよかった」
「由良さんの飲んでいるものはなんですか」
「シャーリー・テンプル。ジンジャーエールとグレナデンシロップのカクテル。すっきりした甘さで飲みやすいから」

 これが女の子同士だったら「一口ちょうだい」と言えるけど、さすがに由良には言えない。
 由良はリクライニングチェア横のウッドテーブルにグラスを置いて、チェアに座り、足を伸ばす。
 南は自分のカクテルを半分ほど飲んでから、由良に話しかけた。

「ここ、由良さん行きつけの場所なんですか」
「夏の間、たまに来る程度かな。この屋上プールは会員制で、普通の泊り客は地下のプールに行くから夏でもあまり混まない。日光浴するには静かで環境がいいからね」

 南は驚いて言った。

「こんなに立派なプールがあるのに、日光浴だけですか」
「有馬は泳ぐけど。僕は泳げないから」
「もったいないですよ! 泳がなくても水に入るぐらいできるじゃないですか」
「水に入って、どうするの?」

 由良がキョトンとした顔で大真面目に訊ねてくる。
 改めてそう突っ込まれると、口ではどうも言いにくい。

「ええと、ひ、引っ張り合う、とか?」
「それって楽しい?」
「やってみましょう!」

 南は由良のために、もう一度ストレッチを一緒にした。
 由良がパーカーを脱いでチェアに置く。先に南がプールの端に設置された階段を下りて水に浸かり、次に由良が続く。
 二人でプールに入ったところで、スイミングキャップとスイミングゴーグルを着用した男性が現れた。静かに移動し、プールサイドのウッドベンチに座る。
 気のせいかもしれないが、こちらを見ているようだ。
 南の視線に気づいたのか、由良が教えてくれる。

「彼はホテル側の監視員だよ」
「そっか。普通、監視員はいますよね」
「普段は監視カメラだけどね」

 だったらどうして、いまは監視員がついているのかな、と疑問に思った。
 だが由良に、パシャッ、と顔に水をかけられて疑問が霧散する。

「こら、デート中に他の男を見ない」

 彼氏っぽいセリフに胸がドキドキする。
 ここは彼女としてどう答えるのが理想的なのだろう。

「み、み、み、見てませんよ。由良さんで、いっぱいです。本当です」

 しどろもどろになってしまったけど、そう伝えると、由良は微笑んだ。
 南は由良が笑ってくれたことにホッとし、由良に向けて掌を上に両手を差し出す。

「はい、最初は由良さんを引きます」
「君が僕を?」

 南の手に由良の手が重なる。さすがに男の人の手だ。南より一回り大きい。

「足を床から放してくださいね。はい、歩きますよー」

 指示に従い、由良がおとなしく南に引かれるままになる。水の浮力が働き、少しの力でも引っ張れるのだ。
 そのままゆっくりと一〇メートルほど進んで、止まる。

「じゃあ、次は南さんの番」

 手を組み替える。
 由良に引かれるまま、水面上を滑っていく。水に顔はつけず、由良と眼を合わせる。
 はっきり言って、見とれていた。
 由良のいままでに見たことないはしゃいだ表情に、南はなんだか幸せな気持ちになる。

「どうしてかな。泳がなくても、君とこうしているだけで楽しい」

 南は由良から手を放し、水中でクルリと素早く一回転してから床に足をつけた。

「私も、由良さんといるだけで楽しいです」

 ちょっぴり勇気のいるセリフだったが、頑張って伝えた。
 それなのに由良が感心したのは別のことだ。

「びっくりした。いまの、どうやったの?」
「え? えと、ただ回っただけですけど。こう、水の中で前回りです」
「僕にもできるかな。教えてくれる?」

 南は二つ返事で了承し、それから由良が水中で一回転できるまで特訓した。
 途中、水を飲んで咳き込む由良の背中を擦ったり、斜めになる身体を押したり、となかなか上手くできなかったが、その時間が楽しかった。
 ようやく一回転に成功し、元の位置に立てたときには、二人でハイタッチした。

「ありがとう、南さん」

 夕焼けを背景に、髪や肌を水に濡らして笑う由良は色っぽいのにあどけなくて、とても綺麗で、南の胸を締めつけた。

 
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【2016/03/31 16:19】 | Leviathan ――リヴァイアサン――
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 本当に久しぶりの更新になりました。
 
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 朝一番に南がしたことはスマートフォンのアドレスを確認したことだった。
 急いで指を滑らせる。無事に、目当ての名前を見つけることができた。

「あった……!」

 夢じゃない。夢じゃなかったんだ!

 ――中務宮(なかつかさのみや)由良(ゆら)。

 スマートフォンを宝物のように抱きしめる。パジャマのままもう一度ベッドにダイブして、転げまわってニヤニヤした。いまこの瞬間を家族の誰かに見られたら、たぶん病院行きだ。
 由良とは今日も講習が終わったら<Leviathan(リヴァイアサン)>で会う約束をした。
 南は鼻歌を歌いながらシャワーを浴び、制服に着替えて、教材とノートを揃えた。

「よーし、やるぞー」

 気分はバラ色でものすごく浮かれていた。
 だが、講習を真面目に受けなければ由良に合わせる顔がないような気がして、勉強にも気合を入れて臨むことにする。
 なんといっても由良はあの英聖館に通っているのだ。不真面目だったら嫌がられるかもしれない。南の成績は中の上程度で、それほど勉強は好きでも得意でもない。いままではそれなりに頑張っていただけだった。
 だが今朝の南は一味違った。自然とやる気が湧いてきた。動機はかなり不純でも、勉強への熱意は本物だ。
 高校受験のときですらこれほど真剣になれなかったのに、恋って不思議だ。

 南は自分でも驚くくらい集中して講義を受け、終了後は誰よりも早く教室を出て一目散に待ち合わせ場所へ向かった。
<Leviathan(リヴァイアサン)>では、由良が出迎えてくれた。
 白のTシャツに七分袖の黒のサマージャケットを重ねて、ベージュのパンツを合わせ、ブラウンの靴を履いている。
 さりげない着こなしがものすごく様になっていて格好いい。

「いらっしゃい、南さん」

 向けられた柔らかい笑顔に南は胸がドキドキした。自然と顔が熱を帯びていく。

「こ、こんにちは! ゆ、ゆ、由良さんっ」
「そんなに緊張しないで。さ、入って」

 南が頭を下げて由良の前を通り過ぎようとしたところ、由良が唇を耳元に近づけてきた。

「君に名前を呼ばれるのは、悪くないね。気に入ったよ」

 由良の囁きは破壊力がありすぎて、南はあやうくその場にへたり込むところだった。
 そんな醜態を演じずに済んだのは、二番目に出迎えてくれた有馬が爽やかに挨拶をしてくれたからだ。

「こんにちは、南さん。外は暑かったでしょう? アイスミントティーはいかがですか。さっぱりしますよ」
「はい! いただきます」

 ありがたく好意を頂戴することにして、ソファに落ちつく。なんとなく、昨日と同じ場所を選んで座った。
 すると由良も示し合せたように南の隣に寛ぐ。
 慣れない距離感に緊張しつつ、由良の近くにいられることは単純に嬉しくて自然と顔がほころんでしまう。

「今日はここの仲間を紹介しようと思って」

 由良の言葉に弾かれたようにわっと人が集まる。俄かに騒々しくなった。
 一人目は、ひょろっと背の高い、少し垂れ眼で、軟派な感じの男の人。

「どーも、こんちは! テルでーす。さすらいの絵描きやってます! ってゆーとなんだかちっとばかし胡散臭い野郎だから、改めて。関東芸術蒼場大学の三年、よろしく」

 二人目は、原宿辺りでたむろしてそうな、化粧も服装も奇抜な同い年くらいの女の子。

「初めましてだよっ。永く美しいって書いて、エイミちゃんだよーん。かわいい女の子が来てくれて嬉しいなー。エイミとお友達になってね!」

 三人目は、眼鏡をかけた、やや白髪混じりの、スーツ姿の初老の男性。

「こらこら、お二人共、お嬢さんがびっくりされていますよ。ようこそ、<Leviathan(リヴァイアサン)>へ。新しいお仲間は大歓迎です。私はここでは教授と呼ばれております。どうぞお見知りおきを」

 四人目は、ランニングシャツにダークブロンズのカーペンターパンツを穿いた、眼力の強い男性。

「……ふーん。ここ来るにしては、ずいぶんまともそう。あんた、どうやって由良さんと知り合ったの? おっかけ……じゃねぇよなあ。ナンパ?」

 南は首を振って答えた。

「由良さんに傘をお借りしたんです」
「傘? へー、由良さんらしいや。察するに、あんたは傘を返却するため由良さんを探したってところか」
「はい」
「ベタだな」
「はい?」

 男性がポケットから小さなメモ帳とボールペンを取り出し、なにか書き込む。
 由良が教えてくれる。

「彼の夢は小説家なんだ。ネタを拾っては時々こうして自分の世界に入ってしまうけど、あまり気にしないで」
「はあ……?」

 南は、いまの話のどこがベタでネタなのか、疑問に思う。
 そこへ有馬がカフェラテを運んできて、南の前のローテーブルに置いた。

「よろしければケーキなどもご用意しましたが、いかがですか」
「嬉しい、いただきます。甘いもの大好きです」

 南がそう答えると、有馬は生ケーキ、果物のタルト、ビスコッティなどを載せたプレートを運んできてくれた。
 取り皿とフォークを並べながら言う。

「お好きなだけお召し上がりください」

 カフェラテもケーキもおいしかった。
 テルとエイミとの他愛のないおしゃべりで緊張も解ける。
 教授はいつのまにかピアノを弾いていて、小説家希望の男性は会話には加わらず、つまらなそうに話に耳を傾けては時折メモ帳になにか記入していた。
 由良はただ、面白そうに南を眺めていた。
 小一時間も経って、姿を消していた有馬が現れ、皆を散会させる。

「そろそろ南さんを由良様にお返しください。お二人の時間がなくなってしまいます」

 するとエイミが額をコツンとぶって、小さく舌を出して笑う。

「ごめんごめん、そうだったあ。理子ちゃんは由良君のお客様だったっけ」

 テルと小説家希望の男性は、それぞれ自分の分のグラスと皿を持って立ち上がる。

「それじゃああとは、若い人たちだけでどうぞ! お邪魔様っ」

 まるでお見合いの席を外すような言い回しに、南は内心、ドキドキした。
 由良と二人だけになると、微妙な沈黙が落ちた。

 な、なにを話せばいいんだろ。

 昨日の夜からずっと、今日のこの時間をシミュレーションしていたのに、いざとなるとなにも思い浮かばない。
 そこで由良が言った。

「こういうときは、なにを話せばいいのかな」

 南はドキッとして由良を見た。どうやら同じことを考えていたみたいだ。

「僕は恋をするのも初めてで、誰とも付き合ったことがないから、わからないんだ。南さんは、わかる?」
「わ、私も、初めてなので、よくわかりません」
「そうか、二人共わからないんじゃ困ったな。どうしようか」

 南は勇気を出して提案してみた。

「さ、最初は、自己紹介しませんか」

 由良が眼をパチパチさせる。

「自己紹介?」

 南は勢いづいて続きを喋った。

「はい。こ、これから一ヶ月近くお付き合いする相手のことを、な、なにも知らないというのは、寂しいです。だから、その、由良さんが嫌でなければ……」

 要は、個人情報が欲しい、と言っている。
 嫌がられたらそれまでだが、迷惑じゃない範囲で、南は由良のことが知りたいと思っていた。
 由良の反応に戦々恐々としていた南の前で、由良はあっさりと頷いた。

「なるほど。じゃあ僕から自己紹介しようか。中務宮(なかつかさのみや)由良(ゆら)、年は十九。小さい頃に病気をしてね、一年、小学校への入学が遅れたんだ。両親、祖父母ともに健在。年の離れた兄が一人いる。英聖館の三年で、美術部に所属していたけど夏休み前に引退した。はい、次、南さん」

 二歳年上なんだ、とボーっと考えていた南はハッとして背筋を伸ばした。

「南理子(みなみりこ)です。十七で、海琳(かいりん)高校の二年です。文系で、選択は音楽。一年のときは水泳部に所属していましたけど、ちょっと色々あって辞めました。いまは帰宅部です。父がサラリーマンで、母はパートで働いています。兄妹はいません」

 由良が気を惹かれたようにやや小首を傾げる。

「なぜ水泳部を辞めたの?」

 率直な追及に一瞬怯んだ南だが、気を持ち直して答える。

「一緒に入部した友達と先輩が揉めて。私も部に居づらくなったんです。泳ぐことは好きだけど、別に記録にこだわっているわけではないので、部じゃなくてもいいかなって。それで辞めました」
「そう、残念。もし水泳部に所属したままだったら、大会の応援に行ったのに。君が泳ぐところ見てみたかったな」

 由良の意外な言葉に、南は便乗して言った。

「じゃ、じゃあ、今度プールに一緒に行きませんか?」

 すると由良は少し驚いたように眼を瞠った。

「僕は泳げないよ。それでもいいの?」
「構いません。プールサイドでゴロゴロするだけでもいいですし、なんだったら泳ぎ教えます!」
「いや、それはさすがにちょっと格好悪いから」

 由良が苦笑いし、南は泳げない由良の手を引いてプールを歩く自分の姿を想像してみた。
 確かに、格好悪い。
 南が、だめかあ、と残念がる一方で由良が口を開く。

「でも、君の泳ぐ姿を見るのは楽しそうだ。一緒に行こうか?」
「はい!」

 即答し、思わずガッツポーズをした南を見て、由良がクスクス笑う。

「いつ都合がいい?」
「いつでも大丈夫です!」

 では明日、ということになった。
 南の講習が終わったあと、<Leviathan(リヴァイアサン)>で待ち合わせをすることにした。

「楽しみにしているよ」

 と言った由良と元気に頷いた南の背後では、有馬とマスターがやや不安げな顔で二人を眺めていた。


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【2016/03/25 16:02】 | Leviathan ――リヴァイアサン――
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